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組合員様へのお知らせ
PTTIで頑張る立尾社長が現地の「じゃかるた新聞」で紹介されました 組合員様へのお知らせ

インドネシアのPTTI(トランスプランツインドネシア)で頑張る立尾社長が、現地新聞社の取材を受け紹介されました。
なんでも沖縄県人会の会長さんがその新聞社に勤めているらしく、日本人向けの『じゃかるた新聞』の一面を飾ることになったのです。
遠い異国の地で奮闘する立尾社長の様子がわかる良い記事になっています。
以下、掲載された内容です。


じゃかるた新聞(2011.8.20付け)抜粋

ジャカルタ郊外の高原で、菊の苗がすくすくと育っている。沖縄県花卉(かき)園芸農業協同組合「太陽の花」(専門農協)が、沖縄名物の台風被害を避けるために、十五年ほど前から始めた苗栽培の取り組みだ。来年の正月や春のお彼岸に合わせ、航空便で日本へ順次配送。沖縄の菊農家が立派な花に育て、日本全国にある花屋の店頭に並ぶ。地元住民たちの雇用を生む菊の苗は、山村の活性化にも貢献している。
ジャカルタから南へ車で三時間。プンチャック峠を越え、グデ山(標高二九五八メートル)の裾野にある山村に入ると、菊の苗を育てるビニールハウスが並んでいた。標高九一〇メートル。午前十時、気温は十五度ほどでシャツ一枚では肌寒かった。
同農協の現地法人「トランスプランツ・インドネシア社」の畑が広がる西ジャワ州チアンジュール県チュグナン郡のチルムプット村。広さ五ヘクタールの農場には、ネットハウスと雨よけハウスが五十七棟ある。約二十品種を育て、毎年千二百万―千六百万本を沖縄に出荷。農場を管理する日本人は、社長の立尾肇さん(五二)だ。インドネシア滞在は通算五年目になる。

■やぎ糞で堆肥作り
苗農場を設立した当初は、グデ山麓の傾斜地を段々畑にし、露地栽培から始めた。乾期には水が不足するため、二十四時間体制で低地の村からトラックで水を運び、苗の発育を見守った。
良質な堆肥(たいひ)の確保にも苦心した。やぎを飼っている民家が多いことに目を付け、糞にテンペ菌と米ぬかを配合。知恵を絞り、環境に適したオリジナル堆肥を作った。「元気な苗を育てるため、毎日が挑戦だった」。日本の市場へ安定して供給できるようになったのは二〇〇五年ごろからという。
最大の課題は、沖縄まで鮮度を保って届けることだった。極端な温度変化は苗を弱らせてしまう。鍵を握ったのは航空便での搬送方法や温度管理で、航空会社との調整に奔走。現在は、日本航空と全日本空輸で空輸し、出荷から二日後の朝には沖縄に到着する。

■人柄に惚れ込んで
一九七二年に本土復帰する以前は、農産物を県外輸出するには検疫が必要だった。関税の経費や手間がかかり、花卉の出荷は米軍や島内向けに限られていた。しかし沖縄返還後は一転、沖縄の温暖な気候を生かした花卉栽培が全国的に注目を集めるようになった。
国内での出荷のピークは三月の春のお彼岸。しかし、苗の採取時期が台風シーズンと重なり、しばしば甚大な被害を受けた。そのことが海外へ目を向けるきっかけとなった。
一九九〇年代に入り、同農協は海外での苗の生産を模索。中国やフィリピン、ベトナムなど東南アジアを渡り歩き、インドネシアでの現地生産を決めた。人件費の安さもあったが、担当者らが村民たちの穏やかで誠実な人柄に感動したことが決め手となった。
一九九六年、初代の宮里勝一社長が現地法人を立ち上げ、輸送コストや安定した品質を保つ課題に取り組んだ。海外で菊の苗栽培を成功させたケースは珍しい。

■「従業員は家族さ」
チルンプット村では約六百三十世帯が生活している。同社は、繁忙期には約百六十人を雇用しており、地元の住民が現金収入を得る貴重な職場になっている。
パート労働者は、午前七時から午後三時まで農場での苗の植え付けや出荷作業を行う。月給はチアンジュール県の最低賃金に相当する約一万円ほど。
農場周辺では水不足が深刻化している。現在、日量百二十トンをくみ上げている地下水の一部を近隣住民に配っている。ラマダン(断食月)前には、乗り合いバス二十台を貸し切り、従業員とその家族ら約三百人を遠足に招待するなど、福利厚生にも力を入れている。
近隣の小学校に対しては、改築費の支援や文房具の寄贈を行ってきた。「給料を増やし、従業員の家族が高校進学できるようにしたい」。チアンジュールの農業高校からは研修生を受け入れている。「従業員は家族と同じ。仕事や私生活の悩み、病気、けが‥。どんなことでも相談に乗りたい」と立尾さん。


「なんくるないさ」と「ティダ・アパ・アパ」の感性もそっくり。「のんびりと生活するインドネシアと沖縄の人々は本当によく似ている。菊の花の苗をインドネシアで育て、一大産地の責任として日本の市場に安定供給し、インドネシア人従業員の生活向上に貢献することが私の仕事です」。立尾さんは、うれしそうに語った。

◇マレー人との共通点
立尾さんは、沖縄の方言とインドネシア語に共通性があることに気付いた。チャンプル(混ぜる)、アパ(何)‥。琉球王国の時代、中国や東南アジアとの貿易の中継地として栄え、沖縄とインドネシアとの関係も深まっていったと見られている。
「30年以上前の私のオジー(おじいさん)とオバー(おばあさん)は、ここのインドネシア人とほとんど同じ顔立ちだった」と立尾さん。
中国南部で誕生し、海洋民族となったマレー人は、マレー半島からスマトラ、ジャワに渡り、フィリピン諸島を北上し、台湾経由で沖縄へたどりついたとのマレー人の北上説を主張する学者もいる。
ジャワ海のプラウスリブの島々には沖縄の追い込み漁の技術が伝わっている。

◇日本の花卉産業
品質の高い国内産が国内市場の大きなシェアを獲得している。菊など花の愛好者はつぼみの状態で買い、咲く過程を楽しむ日本独自の趣向があることも理由の一つだ。菊の単価は圧倒的に日本が高い。輸出先は、オランダなど花卉産業が盛んな国に限られている。

投稿者: editor 投稿日時: 2011-10-27 11:10:21
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